「すみれ人形」 インディーズ・ムービー・シーンに新たな才能が出現した。金子雅和の監督第一作『みすれ人形』は、映画美学校の修了製作として瀬々敬久の監修のもとに作られたものだが、映画学校在学生の作品といった域をはるかに越えた強烈なインパクトを放っている。 まず、その映像の美しさに引き込まれる。緑まばゆい森、白く凍りつく滝、朽ちかけた廃墟、そのひとつひとつのシーンが目を奪う。そしてその中で綴られる物語は、切ないくらいに官能的で甘美なほどに猟奇的だ。 主人公「文月」の妹「すみれ」は、兄に生体腎移植で腎臓を提供するが、退院したその日に連続猟奇殺人犯に襲われ、切り落とされた右腕を残したまま行方不明となる。それから五年、文月は「すみれ」と名づけた人形を相手に腹話術を演じながら、妹すみれの行方を捜している。そしてたまたま訪れたストリップ小屋で、すみれの面影を感じさせる蜜子という片腕のない女と出会うのだった。 うらぶれた場末の劇場、小人の手品師、人の体に寄生する義手、そんな江戸川乱歩や夢野久作を思わせるような隠微で幻想的な世界が繰り広げられていくが、それはけして大仰なわざとらしいものではなく、監督自身の心の内から当たり前に湧き出てきたかのように自然で心地良い。 文月が片腕のない蜜子と一体となって、まるで文楽人形を操るように二人で踊るシーンの透き通るような美しさが、いつまでも心を騒がせる。実に濃密な映画だ。 監督の金子雅和は、弊社刊の『ムービーバンクス』に刺激を受け、松井良彦や佐藤寿保作品から強く影響を受けたという。この『すみれ人形』もまた、新たな傑出した映画作家の鮮烈なデビュー作として、長く記憶に留められることは間違いない。 なお、全編を彩る流麗な音楽を、KIRIHITOの竹久圏が担当しているのも特筆される。(J) ●渋谷アップリンクXにて1月26日(土)よりレイトショー公開(連日21時より)
インディーズ・ムービー史上、最も衝撃的な作品として語り継がれている傑作『追悼のざわめき』の松井良彦監督が、実に22年ぶりとなる新作『どこへ行くの?』を完成させた。 『カミュなんて知らない』などで注目される若手実力派の柏原収史を主演に迎え、その相手役に新宿二丁目で人気のニューハーフ、あんずを起用、さらにピンク映画四天王の一人、佐野和宏が『追悼のざわめき』に続いて役者として出演、強烈な存在感を放っている。 小さな町工場で働く青年アキラ(柏原収史)。彼を金で買って性的欲望を満たしている刑事の福田(佐野和宏)。アキラの親代わりでありながら彼に対して異様な執着を示す社長の木下(朱源実)。そして鬱屈した日々をおくるアキラの前に現れた香里という謎めいた女(あんず)。ホモセクシャルを機軸とした彼らの錯綜した関わりは、やがて後戻りのできないカタストロフィへと導かれる。 松井作品の登場人物は常に社会から外れた存在として立ち現れる。この新作でもそれは変わらない。そして彼らの時には激しく時には静謐な生への希求が、重く苛烈なストーリーを紡ぎ出していく。しかし、その過激さの奥にいつも底知れないやさしさが漂っているのが、松井作品の魅力なのだ。 松井良彦の映画を観るにはある種の覚悟が必要だと言われる。確かにこの作品にも凄惨なシーンがある。しかし、初のカラー作品ということもあってか、その映像は時にはハッとするほどに美しい。そして映画全体からは濁りのない明るさと、不思議な心地良さが感じられるのだ。それはこの映画が紛れもなくピュアなラブ・ストーリーであることを顕している。(J) 公式ページ 2008年3/1よりユーロスペースにてレイトショー公開
谷崎潤一郎の短編「刺青」といえば、主演の若尾文子の美しさが際立っていた増村保造監督による映画化(1966年)が印象深いが、その名作に『乱歩地獄』で久々にその異能を爆発させた佐藤寿保監督が挑んだ。
タトゥーではなく伝統的な彫り物の世界がテーマだが、佐藤寿保の感性はあくまでも同時代的だ。ライトテーブルの上で半透明のラバーに包まれた吉井怜の裸体。赤外線暗視カメラを通して見る隠微な光景。大型ビデオ・スクリーンに映し出された錯綜する表情。サイバー・フェティッシュとも言うべき、その執拗なまでの映像にぞくぞくする。 二人の生い立ちなどに複雑な仕掛けを置くことで、夢野史郎の脚本は作品の世界に広がりと深みをもたらしている。それが終盤で映像として充分に表現されつくしていないなど、もったいない部分もあるが、谷崎の原作と時代を隔ててつながる独自のフェティシズムの世界にどっぷりと浸ってみたい。(J) (2月25日よりテアトル池袋にてレイトショー公開)
江戸川乱歩の小説は、これまで何度となく映画化されてきた。その中には、増村保造監督の『盲獣』や石井輝男監督の『恐怖奇形人間』といった、とんでもない傑作もある。しかし、90年代以降に作られた乱歩映画の多くは、主に乱歩の耽美性に焦点をあてており、もう一つの乱歩の本質である変態的な情念やグロテスクの美学に迫った作品はほとんどない。そんな乱歩ファンの不満を一気に解消してくれるような、新たな乱歩映画が登場した。 四つの短編からなるオムニバス映画である『乱歩地獄』がそれだ。監督の顔ぶれも異色だが、とりあげている作品がまた凄い。特に、乱歩の作品中でも最も異常性の際立つ「芋虫」と「蟲」の二編を映像化したことは、快挙とすら言えるだろう。 「芋虫」の監督は『イーター』でもおなじみのピンク映画四天王、佐藤寿保。脚本をピンク時代からの名コンビである夢野史郎が執筆、音楽は大友良英が担当している。 戦争で両手両足を失って芋虫のようになった男と、その妻との屈折した愛憎を描いた原作に、佐藤寿保はがっぷりと取り組み、原作には登場しない人物(松田龍平)や明智小五郎をからませながらも、これまでにないヘビーでダークなエネルギーに満ちた乱歩世界を描き上げた。無機的な廃墟の中でくり広げられる、芋虫男とその妻とのサディスティックな情念の激突、それをクールに観察する謎の男の乾いた残虐性。それは佐藤寿保がピンク映画から一貫して追及してきた、人間の根源へと迫るラジカルな表現のひとつの到達点といえる。 一方、「蟲」は漫画家のカネコアツシの初監督作品だが、愛する女の死体が腐っていく様を克明に描写するという、これまた変質的な原作を、カラフルな映像を駆使して、実に鮮やかに描き出している。乱歩の最もコアな部分に触れながら、それを心地よいまでにポップに表現した手腕は、漫画家ならではの快挙と言えるだろう。 この二作に加え、既に乱歩作品を二度映画化している名匠、実相寺昭雄が「鏡地獄」を独自の美意識で完成度の高い作品に仕上げ、またCMやMV出身の竹内スグルが「火星の運河」で斬新な映像を展開している。浅野忠信が全作品に出演し、明智小五郎から変質的ストーカーまでを演じているのも見所だ。 11月5日より、シネセゾン渋谷、テアトル新宿で、 「フォービデン・ゾーン(リミテッド・フォー・レイト・ナイト)」 あまりにもオリジナルなハチャメチャSFミュージカル・エンターテイメント 1980年、レイトショー文化の起爆剤ともなった『フォービデン・ゾーン』がリバイバル上映される。 『ロッキー・ホラー・ショー』に代表される、いわば“カルト・ピクチャー”は、劇場の昼の興行を追い出された結果、若者を中心にミッド・ナイト・シネマ=レイトショーとして、一般映画とは異なる独自の文化を形成した。観客は映画の中から音楽やファッションを学び、いわば映画館がポップ・カルチャーの発信地として機能していた時代があったのだ。 奇想天外なストーリー、チープな書割セット、突如挿入されるシュールなアニメーション、そして50'Sと80'Sをうまくかけ合わせたポップかつアヴァンギャルドな音楽は、再評価されるべき。今回はエルフマン監督自ら、スクリーンサイズや編集で再度手を加え直した“リミテッド・バージョン”、ニュー・プリント35mmでの公開となる。 (4/23より吉祥寺バウスシアターにてレイトショー公開) 上映作品 「ヴィタール」 塚本晋也監督が「記憶」と「死体」をテーマに、人間存在の深奥に迫った新作だ。その映像表現は、前作『六月の蛇』から更に深みへと到達し、静かな感動を呼び覚まさずにはいない。 浅野忠信の演じる主人公は、交通事故で恋人(柄本奈美)と記憶を失う。記憶喪失のまま医学生となった彼は、死体解剖の実習に参加するが、その死体が恋人のものではないかと疑いを持つ。次第に蘇る彼の記憶には、現実とも幻想ともつかない恋人と過ごした日々が浮かび上がってくるのだった。 人間が自分が自分であることを確認するのは、「記憶」によるところが大きいだろう。人生を重ねて記憶の量が増えれば増えるほど、そのことを実感する。しかし、それはまた実に不確かなものであり、底無しの不安感とも結びついている。 映画には死体解剖の様子が、克明に描かれる。物体としての人間はしかし、ただの「物」ではない。皮膚や骨格や筋肉や内蔵の奥に、人間としての濃密な本質が存在することを、その鮮烈な映像が描きだす。 記憶喪失と死体解剖というテーマによって、この映画は心の奥深くへと語りかけてくるのだ。これまでの塚本映画を特徴づけていたバイオレンス・シーンは、この映画には一切ない。都市や機械文明と生身の肉体との相剋を描いてきた塚本晋也は、さらにその先へと大きく歩を進めた。この映画は、これまでの塚本作品を越える、紛れもない傑作といえるだろう。國村隼や串田和美らの俳優陣も素晴らしい。 渋谷アミューズCQN /新宿K's cinema で12月11日から上映
元クラッシュ、2年前に急逝したジョー・ストラマーの
ロンドン・パンクの一時代を築いたクラッシュのジョー・ストラマー。2002年に急逝したジョー・ストラマーの最期の2年間をとらえたドキュメント、「レッツ・ロック・アゲイン!」が公開される。 作品は201年USツアー、2002年日本ツアーを中心にライブ、そしてインタビューで構成される本作品で注目すべきは、ジョーの人柄であろう。音楽で飯を食う、という生き方を選択した往年パンク・ロッカーへの世間の風当たりは残酷である。しかし彼は自身の足でラジオ局を回り、手書きのフライヤーを撒き、なによりもメスカレロスという仲間達を得て、「人生を五分五分に持ち込む」ために再度戦いを挑むのである。その姿は、MTVや安易なドキュメントでは決してみることができないものであり、彼の「生き残るための闘い」を追った、パンク・スピリッツに根ざす記録である。 監督のディック・ルードは鬼才アレックス・コックス監督作品には常連の俳優。『ストレート・トゥ・ヘル』では主演のギャングを演じ、脚本も手掛けている。ジョーとは『シド・アンド・ナンシー』以来、家族ぐるみの親交があった。 なお上映は通常の映画用の音響ではなく、ライブ用のPAシステムを使用しての、文字通り爆音上映で行われる。ライブシーンはコンサートに限りなく近い音響でに再現されるらしいので、コレは、是非観て体感して欲しい!
「≒(ニアイコール)会田誠 〜無気力大陸〜」 モダン・アートの世界で、次々と問題作を発表し続ける“取扱注意の作家”、会田誠のドキュメンタリーが完成した。 会田誠については、すでにこのサイトで何度か紹介しているが、大きなセル画に描かれた現代の春画「巨大フジ隊員vsキングギドラ」、太平洋戦争中に戦意高揚のために描かれた戦争画を蘇らせた「戦争画リターンズ」シリーズ、今時の女子高生をモデルにした「切腹女子高生」など、戦争からオタク文化まで、時代の感性を鋭い感覚で、様々な手法で表現する、今最も注目すべきアーチストだ。さらに漫画『ミュータント花子』や小説『青春と変態』など、その表現活動はアートの範囲にとどまらない。 今回のドキュメンタリーは、カルト的な存在のアーチストの創作活動を追う「≒(ニアイコール)」シリーズの第二弾(第一作は「≒森山大道」)。会田誠も参加する美術グループ昭和40年会の一員でもある、玉利祐助の第一回監督作品だ。 映画『≒会田誠』の中心となっているのは、草加市の狭くて散らかったアトリエでの200号の大作「人プロジェクト」の制作過程と、パリのカルティエ現代美術館で開かれた「Coloriage(ぬりえ展) 」の会場でダンボールの城「新宿城」を造り上げる様子だ。それに、村上隆とのトーク・イベント、ギャラリーでの風変わりな個展、友人達との交流など、会田誠に密着したいろいろな映像が散りばめられている。 会田誠当人は「地味な場面ばかりだから、面白くないですよ」と謙遜しているが、どうしてどうして、全編興味深いシーンが続き、予想以上に楽しめる内容となっている。何といっても、一見すると気力の抜けたような風情の会田誠が、制作の過程で発する言葉のひとつひとつが示唆に富んでいて、実におもしろい。アートを作るとはどういうことか、今の時代にアーチストであるとはどういうことなのか、映画の端々から、彼の豊かなイマジネーションが伝わってくるのだ。 「まんがイーター」のために行ったコスプレ・アイドル「声」とのボディ・ペインティングも、映画の最後に一瞬だけ映し出されるので、お見逃しなく。 2003年11月8日(土)より 東京渋谷シアター・イメージフォーラム(レイトショー) 「リベンジャーズ・トラジディー」 『シド&ナンシー』や『レポマン』で知られる、パンク世代の映画監督アレックス・コックスの新作『リベンジャーズ・トラジディ』が公開された。これは17世紀のシェークスピア時代の戯曲を、近未来のイギリスを舞台に置き換えて映画化したもので、恋人を殺された男が町の権力者一族に闘いを挑む壮絶な復讐劇だ。 彗星の接近によって、ヨーロッパの大半が荒廃してしまった2011年。悪辣なデューク一族に支配されたリヴァプールの町に、主人公ヴィンデッチが帰ってくる。彼は、デュークの誘いを拒絶したために殺された恋人の復讐のために、町に戻ってきたのだった。正体を隠したヴィンディチは、デュークの長男にとり入り、巧妙な方法でその兄弟達を権力争いに巻き込み、死に追いやっていく。 登場人物はみな剥き出しの人間性が生々しく描かれ、17世紀と近未来の融合したゴシックでアナーキーな世界が、エネルギッシュに展開される。何者にも従属しない主人公の反骨心あふれる生き様は、ハリウッド的なグローバリズムと闘ってきたアレックス・コックス自身の姿と重なる。常にエッジを歩き続けるアレックス・コックスが、その真骨頂を鮮やかに示した快作だ。(渋谷ユーロスペースで公開) 『リベンジャーズ・トラジディ』の公開を記念して、アレックス・コックスの関連作品も公開。 <雑誌『バースト』10月号に、地引雄一(『イーター』編集長)によるアレックス・コックスと石井聰亙の対談記事が掲載されています> 「六月の蛇」 昨年のベネチア映画祭で最も斬新な作品に与えられる審査員特別大賞を受賞した、塚本晋也監督の新作『六月の蛇』がようやく公開された。 塚本作品では、これまで都市や文明と激しく対峙させることによって、人間の身体性がリアルに、そして先鋭的に描かれてきたが、今回の作品では、身体のエロスそのものが追求されている。 登場人物は三人。オタク的な夫・重彦(神足裕司)と電話カウンセラーとして生真面目に働く妻・りん子(黒沢あすか)のセックスレス夫婦、そしてりん子に迫るストーカーの男・飴口道郎(塚本晋也)。三人は最後まで直接肉体的に接することはない。三人を結び付けるのは、カメラであり携帯電話であり、一方的な視線のみだ。しかしその抑制された関係性ゆえにこそ、肉体の持つ本源的なエロチシズムが、ブルーのモノクローム画面から、強烈に立ち昇って来る。 性的に満たされない思いをいだきながら、地道な生活を続けるりん子のもとに、自慰の現場を盗撮された写真が送りつけられてくる。ストーカーの男は、りん子を脅迫し、様々な要求をつきつける。大胆な服装で街中を歩かされ、バイブレーターを使うことを強要されるりん子。屈辱と羞恥に悶えるりん子は、しかし次第にエロスの恍惚に目覚めるのだった。妻の変化に気付きながらも、自分の世界にこもり続ける夫重彦も、ストーカー男の仕掛ける修羅の世界に、次第に巻き込まれていく。 地味で目立たない容貌が、ストーリーの進行とともに、セクシャルに変貌していく黒沢あすかが魅力的だ。 性をめぐる過激で大胆な設定も、塚本晋也が手掛けると、スリリングでシャープな映像に昇華されていく。特に、雨の中、ほとばしる激情に悶えるりん子の姿を、姿を隠したストーカー男がカメラで写し続けるシーンは、陶然とするほど美しい。 後半、塚本映画らしいバイオレンスも炸裂するが、そのような場面が不必要に感じるほど、クールで官能的な美しさに貫かれた映画だ。これまで塚本映画をあまり観たことのない人達、特に女性、にこそ観てほしい作品だ。 http://ysfm.ryosaku.com/snake/ 「理髪店主のかなしみ」 商店街の理髪店には、なぜか少々?極端な性癖を持つお客さん達がやって来る。恋人とのアブノーマルなイヤらしい事をぺらぺらとしゃべりまくる客(柄本明)、女王さま(ひふみかおり)に首輪付きで連れられて、おまえは犬畜生以下だと虎刈りを命じられる客(綾田俊樹)・・・。店主(田口トモロヲ)は淡々と仕事をしているが、実は本人も脚フェチのマゾヒスト。少年時代、家庭教師におしおきをされたていた時の喜びを今でも忘れてはいない。 田口トモロヲ演ずる律儀で潔癖そうな理髪店主の、どうにもならない性(さが)に翻弄されていく姿はなんとも情けなく滑稽で、あぁ人間の色っぽい匂い。店主の人柄がよく映える、ほどよく凝ったレトロな店内も見どころの一つだ。程良さは、この映画全体に通じる魅力。SMやらアブノーマルやら、ストーリーもシーンも際どいが、おばかで可笑しく、ちょっとレトロで、品まであって、小憎い匙加減に味わいがある。秋の夜長はエッチなトモロヲさんに決まり!エンディングには“ばちかぶり”の「Only You」!く〜。 11月9日(土)よりテアトル新宿にてレイトショー!
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