これは監督自身が自らの壊れかけた家族にカメラを向けることで本音の対話を試み、修復へ向けて切実に取り組んでいく、真っ向勝負のドキュメンタリー作品である。 引きこもり生活をする兄を救い出すために、小林(監督)はカメラを持った。引きこもり生活は既に7年間に及び、長野の実家で兄と暮らす母は心身共に衰弱し、暴力的な兄を恐がり逃げるように生活している。父は、兄との奮闘に疲れ果て、高校進学をきっかけに上京した小林と共に埼玉の家で暮らしている。小林自身も5年間実家に帰っていなかった。家族はそれぞれを避けるようにばらばらになり、コミュニケーションを失っていた。そんな中、小林はカメラ越しに家族に話しかけていく作業を試みる。カメラは、カメラを持つ監督本人の苦悩を含めて、人には見られたくない(見せたくない)現実をあくまで客観的に冷静に、凄まじいほどありのままの姿をとらえていく。 こんな映画があったとは!力あるリアルに心を揺さぶられ、素直な拍手と、シンプルな爽快感と、人間の原始的な気力が湧いてくる。びっくりするほど素晴らしい作品だ。是非できるだけたくさんの人に観てもらいたい。というより、観なきゃ損。若き小林監督の今後にも注目したい。そして、ひそかに兄にも。 2002年10月19日(土)より BOX東中野にてモーニング&レイトロードショー! http://www.mmjp.or.jp/BOX/ (BOX東中野)
「戦艦ポチョムキン」「イワン雷帝」「アレクサンドル・ネフスキー」などの古典的名作はご存じでしょう。これはそれらの作品の監督であるセルゲイ・エイゼンシュテインの物語です。髪を逆立て、皮肉な言動をする、エキセントリックで、大胆不敵で、ふざけながらも真摯な男が駆け抜けます。 1889年にロシアで生まれ、50歳で独り死んでいった人生の中で、晩年に至るまでの激動の26年間が描かれています。独裁者スターリンの時代、検閲で自由を奪われ、ともすれば殺されてしまうような状況下で自分が作りたい映画を作るために頭をひねり、映画人として抹殺されることなくうまく生き延びていこうと試みる、アバンギャルドかつ、たくみでたくましい生き様を見ることができましょう。エイゼンシュテインが好んで引用したゲーテの言葉「真実に対して誠実であるために、時に、人は敢えて真実から目をそらさなければならない」にはまさに彼自身を感じさせられます。 20世紀初頭の近代映画の父と呼ばれた天才の人生、芸術家たちが社会と芸術の制度に敏感に反応し、政治革命に参加したような時代をちょっとだけでも垣間見て想像してみてはいかがでしょう。人の、挑戦的で革新的なエネルギーを感じてみてください。 シアターイメージフォーラムにてロードショー中!
イスラエル、パレスチナ双方の子ども達のインタビュー映画です。政情が比較的平穏だった1997年〜2000年の3年間、監督のひとりであるB.Z.ゴールドバーグがパレスチナ自治区やエルサレム近郊を旅するなかで、7人の子ども達に出会ってゆきます。 パレスチナ難民キャンプに住むアラブ人の少年もいれば、東エルサレムに住むハマス(イスラム抵抗運動)支持者の少年、西エルサレムに住むユダヤ人の双子の兄弟、ユダヤ入植地に住む超正統派ユダヤ教徒の少年、パレスチナ難民の3世で近代的なアラブ人一家の少女などそれぞれ全く違う家庭環境、社会環境の中で暮らしている子ども達です。紛争により、友だちを失っている子もいれば、父親が刑務所に抑留されている子もいます。 対立を常に意識せざるをえない土地に生きる子ども達から発せられる言葉には、顔をしかめたくなるものもあったり、思わず感心してしまったり、微笑ましかったりと様々です。親や周りの大人たちが透けてくるようで、対立のしくみが見えてくるようでもあります。一方、子ども特有のユーモラスで柔軟な感性も大いに活発です。未来の可能性を偏らせ、頑なにしてしまうものは何なのか考えさせられます。 興味深いシーンが待っています。監督のよびかけで、パレスチナ、イスラエル双方の子ども達が出会うことになります。お互いのことをまったく知らない子ども達がどのような交流をすることになるのか?そして、その出会いから2年後、彼らは何を語るのか? BOX東中野にて公開中。8月末より順次全国ロードショー!
この映画は、20世紀の人間の歴史を過去の映像や、現在のアウシュビッツ、ベルリン、板門店などを訪れることでふりかえりながら、一方で自然の息吹に耳を澄まし、その姿をじっくりと見つめた、ゆったりとして深く静かな映像詩です。 一人の老人が旅人として、アウシュビッツを訪れます。建物や室内にはいまだ過去の暗く重い死の影が息苦しいほどに漂っています。それとは対照的に、周辺には花々や初夏の緑が気持ちよく呼吸をし、生命の輝きをはなっています。 南北分断後はじめて映画撮影が許可された板門店(共同警備区域=JSA)では、韓国人の女の子が上記した中村桂子女史の詩を韓国語で朗読します。南北の兵士達が監視する緊張が張りつめた場所で、北側と南側に向かい少女らしいやわらかくまっすぐとした声が響き渡ります。 あってほしい未来をイメージさせる、祈りのような作品です。 シアターイメージフォーラムにて公開中!
これはある夫婦の物語。平穏だったはずの生活に、ある日突然奇妙な出来事が起きます。妻が風呂で溺れて死んでしまうのです。蛇口から落ちる水滴を眺めているうちに、「死んでも夢を見られるのなら、死ぬのもそう悪くはない」と心の中で呟きながら。夫は溺れた妻を見つけて、咄嗟に何もすることができません。居間にもどり、コーヒーを飲み…。 しかし、翌朝妻は生き返っています。夫は困惑します。良心の呵責と、非現実的な出来事に対する納得できない気持ちでイライラし、妻への不信感を募らせます。妻の体調もすぐれません。しだいに家の中では、何かが“におい”始めます。「見えないところで何かが腐り始めている」と夫。妻は掃除をしてにおいを消そうとします。しかし、においの原因は見つかりません… マンションの部屋での夫婦の会話を中心にしたシンプルで余白感のある映画です。夫婦の関係が壊れてゆく感情の道程が、シュールに、ひんやりと描かれていきます。日常の目に見えない掴みづらいもの、波動がずれていく空気感がこちらの肌に伝播してくるようです。夫婦役である塚本晋也と片岡礼子の台詞が意味深に響いてくるのには感覚をくすぐられますよ。 5月25日よりユーロスペースにてレイトショー! 「孤高」 この映画は、タイトルもなく始まり、スタッフやキャストのクレジットもなく終わります。ストーリーもなければ、音楽もなく、無音の中でただひたすらニコとジーン・セバーグが映し出されていきます。観る者は、この二人の女性が泣き、笑い、悶え、苦しむ表情に黙々と向かい合うことを余儀なくされます。 彼女たちは監督であるフィリップ・ガレルが愛した女性であり(ニコはガレルの元妻でもある)、そういう意味でこのフィルムは一見、極私的なもののようにも受けとめられます。今は亡き二人のアイドルが動く姿なら何でもみたい!というファンにとっては、そのようなお蔵入りになっていた映像を目にすることは喜びでありましょう。彼女たちが演技をしているのか否かは知る由もありませんが、まるで素顔を垣間見ているかのような映像です。ジーン・セバーグの自殺への衝動を映したシーンは、晩年の彼女の素顔と重なるようで、痛々しいです。おそらく、この映画は、彼女の死によって製作を断念されてしまったのでしょう。 音もなく、物語もない、未完成の(意図した未完成なのでしょうが)、こんなにも意味不明な映画も稀です。もしかすると、人によっては果てしなく退屈してしまうかもしれません。でも、被写体を追うにつれ、これは極私的なフィルムなの?どんな映画を撮ろうとしているの?という疑問や、単に彼女たちを眺めたいというファン心理を越えて、ひとつの作品としての様相も見えてくるから不思議です。それこそが監督の意図するところだったのでしょうか?それまた謎ですが。“見つめる”ということはとてつもなく困難なことであり、忍耐を要する作業です。このストイックな映画体験であなたは何を見るのでしょう? 5月23日よりシネ・アミューズにてレイトショー! 「マッリの種」 1991年、ラジブ・ガンジー首相を自爆テロにより暗殺した少女が何を考えていたのか、彼女を留まらせるものはなかったのか、という疑問から本作品は生まれたそうです。マッリは19歳のテロリスト。父親は高名な愛国派詩人で、兄は使命のために青酸カリで自らの命を絶ち仲間に英雄とあがめられた闘士でした。そのような環境の中で育った少女は、ある日、VIPを暗殺するための人間爆弾「頭脳を持った爆弾」に志願します。テロリストとして揺るがぬ信念を持っていたマッリはTHINKING BOMBに指名され、任務の実行地へと向かうことになります。ガイド役の少年は地雷で家族を失っていました。そんな少年との束の間の触れあい、投宿先の大家さんである陽気な老人のおしゃべり・・・。 ジョン・マルコヴィッチはこの映画を気に入ってパトロンにまでなってしまいました。研ぎ澄まされた美しい映像と骨太で力強いストーリーに衝撃を受けた、と大絶賛しています。インドを舞台にした、自然光の映像は目に新鮮です。マッリを演じた女優、アイーシャー・ダルカールの大きな強い瞳、身体には、はち切れんばかりの生命の張りを見るようです。水を弾く褐色の皮膚の清々しいこと。数々の水のシーンはこの映画の大きな魅力となってますが、記憶に残る映像となるでしょう。抑制された表情の内側の微かな変化の兆しが発光しています。 http://www1.sphere.ne.jp/there-s/malli/index.htm 「A2」 これは前作「A」に続く、オウム真理教(現アレフ)を題材にしたドキュメンタリー映画です。地域住民のオウム排斥運動が激化する中で、1999年10月から2000年10月まで、信者と地域住民との軋轢から生まれた彼らの葛藤や煩悶を中心に記録されています。 カメラは、オウム信者が生活する施設内部の様子を映し、彼らの本音や葛藤する姿を追います。そしてオウム排斥運動をする地域住民や右翼、それをとりまく警察や通りかかりの市民、マスコミ、信者の旧友、サリン事件被害者など、オウムをとりまく様々な人々の姿や、彼らとオウム信者とのやりとりのありさまをとらえていきます。 この記録映像に、私たちが今まで新聞やテレビで見知ってきた事実とはまた違った現実の一面を見ることができるでしょう。登場する色々な人々の断片を眺めていると、今日の日本人の姿が浮かび上がってくるようでもあります。実はこの作品、コメディーか?というくらいに可笑しくて、笑えます。ぜひみなさんも「A2」を観て笑って欲しいです。そして滑稽の正体を見て欲しい。とにかくぜひ観てください。面白いです! 「A2公式ページ」 2002年3月23日BOX東中野にてロードショー! 「リーベンクイズ」 “リーベンクイズ〜日本鬼子”、聞き慣れないこの言葉は、日中戦争時に日本の残虐な兵士、ひいては日本人を指して言われた中国語です。日本は1931年の満州事変から本格的な侵略戦争を開始して、日本の敗戦までの15年間、中国大陸で数々の蛮行をしてきました。この映画は、その当時、日本兵士として中国に赴いていた14人が、自ら行った加害行為をカメラに向かって淡々と語ってゆく証言集です。 たとえ、残虐行為がなされたという事実を知識として持っていたとしても、その具体的な内容を、まさにその行為をした加害者の姿を目の当たりにしながら聞かされるのは圧倒されます。あまりに赤裸々な告白を聞くのも、辛いもの。歴史の事実をしっかり受け止める心構えを迫られます。 そしてなにより、彼らが当時も本当にごくごく普通の人間であったこと、つまり私でも誰でもいくらでも彼らのようになりかねないということ・・・。戦争というものは・・・人間というものは・・・。とりわけ若い人たちに観てもらいたい作品です。 http://www.japanesedevils.com/ 2001年12月1日よりシアター・イメージフォーラムにてロードショー
「インフィニティ 波の上の甲虫」 人を傷つけ、自らも傷ついてしまった男、ライター高橋が東京から逃げるようにして南の島を訪れます。本当にやりたかったこと、“小説”を書くために。小説の主人公“タカハシ”は、映画監督志望でこの島に“タカラモノ”を探しにやってきたという設定です。果たして高橋は小説を書くことができるのでしょうか・・・。そして、“タカハシ”は“タカラモノ”を見つけることができるのでしょうか・・・。お話は高橋と“タカハシ”の時空を越え、虚構と現実の世界を交錯させながら世にも不思議なおとぎ話へとなってゆきます・・・・ 舞台はフィリピンのリゾート地、ボラカイ島。まるで自分も島に降り立ったかのごとく自然の光や空気を満喫できる映像です。日頃、なかなか旅に出るチャンスのない人には好いかもしれません。そして、幻想的なエピソードがなんともチャーミング。島に古くから伝わる言いつたえ・・・。子どもの頃におじいさんやおばあさんから聞かされたようなお話とは既に縁遠くなっている身には、優しくて懐かしい感覚を呼び覚ましてくれるでしょう。え、もうそんな子供じみた絵空事はばかばかしい?まぁそう言わずに。それに、この映画はいつのまにかフトした感じにしみ込んでくるので、知らぬ間にゆるんでしまいますよ。音楽は雅楽の東儀秀樹氏が担当。島のゆったりとした時の流れや登場人物の複雑な心象風景とマッチして魅力的です。 12/1(土)より東京都写真美術館にてロードショー! 「short 6」 シネクイント・ショートフィルムズVol.1 海外の短編映画はなかなか観る機会を得られないものですが、この度映画館シネクイントでは新しい企画がスタートした模様です。その第一弾は、それぞれ全く違ったテイストを持つ6作品のラインナップ。お気に入りの一つが見つかるかもしれません。ちなみにわたしのおすすめの一つを紹介いたします。 『四つの部屋と六人の打楽器奏者のための音楽』 スタイリッシュかつ絶妙な抜けたセンスにツボをくすぐられる作品です。四つの部屋とは、犬の散歩で留守中の老夫婦のお部屋のこと。なぜかそこに6人の集団が侵入してキッチン、ベッドルーム、バスルーム、リビングと順繰りに巡っては日用雑貨を勝手に取りだして即興演奏を始めます。楽器と見立てたこともない日用雑貨でナイスなリズムの奏でるのは見物です。また、インテリアや雑貨のシンプルでかわいいこと!スウェーデンのグッドセンスにもわくわくです。 その他の作品・・・・・ http://www.gaga.ne.jp/short6/ 「ピストルオペラ」 このチラシの色合い、江角マキコのコスチュームにポーズ、いかがでしょう?テレビで見かける彼女のイメージで敬遠されぬようお願いします。実にかっこいい。彼女だけでなく山口小夜子の独特な御衣装にきめきめポーズはさすがカリスマ的存在の元祖スーパーモデルと唸らされるし、新人の少女、現役ロリータ韓英恵の動く姿などはもう全く目の保養と言いましょうか幸せな気分にさせられるし。皆さまの動くなりきりポージングにドキドキワクワクキャーってなわけです。 そのようなドラマチックなビジュアルの連続に目は休む間もありません。あるいは、休みっぱなしになってしまうという話もありますが。ともあれ、大画面に繰り広げられる色と形に攻められながら、ひょいひょい、とんとん展開されては、、、強烈な締めで終わりにさせられてしまいます。この勢いはなんだ。可笑しいのか、かっこいいのか、完璧なのか、破綻してるのか。鈴木清順監督78歳、いまだイメージは疾走し続けているのですね。あぁたまらなく刺激的。 今秋10月テアトル新宿 渋谷シネパレスにてロードショー 「いちばん美しい夏」 監督/ジョン・ウィリアムズ 出演/真帆、南美江 2OO1年/105分 日本 遊び好きの女子高生がひと夏、親戚が経営する旅館に預けられることになります。旅館の手伝いをしながら、親戚一家と暮らします。都会育ちの子ですから田舎での生活は退屈でふてくされた毎日です。おまけに痴呆気味のお婆さんの様子まで見に行かされることになり、ますますおもしろくないのですが・・・。 鬱蒼と繁茂する木々の緑、多感で育ち盛りの女の子、凛とした老婦人、、、画面は瑞々しく輝いています。自然体で見ている者を素直にさせてしまう不思議な力がある映画です。痴呆気味の老婦人を小津映画などでお馴染みの大ベテラン南美江さんが演じるのですが、彼女の台詞には不意打ちをくらうような衝撃を覚えました。日々の暮らしの所作といい、律し具合といいまさに凛々しく、その姿を追うだけでも見応えがあります。 監督はイギリス人男性なのですが、日本人が本来持つ素敵なものがいっぱい描かれています。懐かしいなと思ったのは失いつつあるものだからでしょうか。一見普通っぽくてありそうなのだけど、実はなかなかない、素敵な夏模様です。大らかで繊細な映像と相俟ってポール・ロウの音楽も心地いいので、田舎に帰るような気分で映画館に立ち寄るのはいかがでしょう。眩しいですよ。 2001年8月18日(土)〜9月7日(金) 「ELECTRIC DRAGON 8000V
」 石井聰亙が浅野忠信、永瀬正敏とのトリオによって、『五条霊戦記』の前に撮影していた作品『ELECTRIC DRAGON 8000V 』が公開される。『エンジェル・ダスト』以降、正統的な映画作りが続いていた石井聰亙監督だか、この作品は一転、全編モノクロのシャープな映像が狂ったように疾走を続ける、文字通りのパンク・ムービーとなっている。 浅野忠信の演じる竜眼寺盛尊(りゅうがんじ・もりそん)は、幼い頃に雷に打たれたため、常に体に 80000ボルトの電流を帯電し、爬虫類的な攻撃的本能が目覚めてしまった異能の男。彼は有り余る電気エネルギーをエレキギターを弾くことによって発散し、爬虫類専門のペット探偵をして密やかに暮らしている。 一方の永瀬正敏演じる雷電仏蔵(らいでん・ぶつぞう)は、顔の半分を黄金の仏像で覆った異様な姿で、昼間は電気屋としてビルの屋上で衛星アンテナを修理し、夜は特殊な武器を使い悪を倒す仕置き人。やはり、雷による特異体質のようだ。この二人が出会う時、前代未聞の大バトルが始まる。 荒唐無稽ともいえる設定を、あくまでストレートに押しまくるシンプルな展開は、爽快そのもの。台詞が極端に少なく、船木誠勝(格闘家、『五条霊戦記』にも出演)の叫ぶようなナレーションと、当人達が書いた手書きの字幕が、映像そのものの持つ力強さをよりダイナミックに増幅している。それは、監督自身も語っているが、サイレント映画のダイナミズムを思い起こさせる。 また音楽は、石井作品を多く手掛ける小野川浩幸と、石井聰亙と小野川が結成したバンドMACH1.67が担当、ノイジーなロック・サウンドを全面展開している。MACH1.67には、浅野忠信がボーカルとギターで参加しており、映像とサウンドを絡めたライブを度々敢行。6月の法政大でのライブでも、石井作品の映像とMACH1.67の演奏が一体となって鮮烈なイメージを叩きつけ、最後には浅野忠信の迫力あるパンク・ボーカルが、会場のボルテージを一気に爆発させていた。『ELECTRIC DRAGON 8000V 』でも、MACH1.67のサウンドは単なる映画音楽以上の存在感を持ち、この映画全体がひとつのライブといってもいい。 『狂い咲きサンダーロード』や『爆裂都市』など、初期の石井作品を思わせるところの多いこの『ELECTRIC DRAGON 8000V 』、これは原点に還ったというよりも、石井聰亙のコアの部分そのものを、爽快なまでにストレートに、そしてパワフルに表出したものに他ならないだろう。 「路地へ」 中上健次を感じて少々感傷的な気分にでもなれるのかしらん、など軽々と思いながら試写会へ出かけたものの、見終わってそんな考えはまったく野暮だったことに気づいた。映画は、1992年8月12日に中上が没し、7回目の夏に彼の故郷であり小説の舞台にもなっている紀伊半島南部の紀州をひとりの若い映画作家・井土紀州が車を運転しながら辿るというドキュメンタリーになっている。その名の通り、彼も紀州出身である。 松坂という標識のある市街地から旅は始まる。車は数々のトンネル、峠を越えて中上の生まれた地、小説の舞台となった“路地”のある場所である、新宮へと走る。井土は途中下車し、熊野の巨木の下で、かつて路地のあった場所で、新宮の海で、中上のテキストを朗読し、歩く。そこに見えるものは、殺風景な道路とどこにでもあるような田舎の景色だ。情感をくすぐるような絵は見あたらない。不意に、中上自身が撮影したかつての“路地”の映像が挿入される。井土が訪れた記念館のような所では、集計用紙にびっしりと書き込まれた中上直筆の原稿文字や、彼の写真が映る。彼の墓地が映る。 そのような映像によって、ようやくかつてあった中上の存在を意識する。そして井土に朗読される小説の断片を聞きながら、画面に映るがらんとした風景を眺めて、中上の小説としてしか存在しなかったであろう風景や、たしかにあった過去の風景、人々の営みを目の奥で想ったりした。なんとなくざわめきが蘇るような気もした。でも、そんなものは想ってみたところで知りようもなく、ただただ、時空間や虚構と現実という間の距離を意識した。そして、中上の作品は時を越えて存在していくのだな。あたりまえだけど。背景に流れる音楽は、大友良英氏と坂本龍一氏の音が使われている。とくにイーターでもおなじみの大友氏のクールな音を聞けたのはちょっとうれしかったりもした。 2001年夏ユーロスペースにてロードショー
1969年から1974年に作られた人形アニメーション『チェブラーシカ』シリーズの3本の短編作品です。ロマン・カチャーノフ監督は日本ではあまり知られていませんが、ロシアアニメ界の巨匠として活躍してきた方です。原作は、児童文学者であるウスペンキーの作品『チャブラーシカとなかまたち』で有名で、チャブラーシカはソビエト時代からロシアの子どもたちで知らない子はいないというくらいに人気キャラクターだそうです。 その人気者、チャブラーシカというのは小ぐまに似た架空の可愛い動物です。茶色くてちっちゃくて、目がくりくりしていて、耳が大きくて、、とにかく愛嬌ある姿をしてます。 「ともだちになってくれないのは僕が正体不明だからなの?」とうつむきながら言うチェブラーシカの身ぶりが愛らしくてなんとも可笑しいです。決して陰気ではないのだけど、どこか寂しげで静かで、だけど絶妙にユーモラスなのです。これは人形のキャラクターや彼らのやりとりなどにもあらわれていますが作品全体に流れるムードです。お国柄、時代柄なのでしょうか。なかなか興味深いです。そんな魅力的なムードに和やかな気持ちにさせられる60分です。ぜひチェブラーシカに会いに行ってみてください。 ユーロスペースにて7月21日(土)よりロードショー! 「アンチェイン」 アンチェイン梶、ガルーダ・テツ、永石磨、西林誠一郎という四人のボクサーのドキュメンタリー青春映画。4人はボクシング、キックボクシング、シュートボクシングとそれぞれ違うリングで闘う格闘家である。 アンチェイン梶を中心に彼の現役時代から、引退、そして現在までの5年間をとらえている。4人は共に闘い続ける仲間同士で、互いに心の深いところで通じ合う深い絆で結ばれている。舞台となる’90年代大阪の風景を、4人の格闘家、監督の豊田利晃、音楽担当のソウル・フラワー・ユニオンと当時の大阪に生きる同世代の男たちが織りなす。よって彼らの青春時代の空気が誇張なく気負いなく描かれ、世代的な顔も浮き彫りになっているようだ。 梶のリングネーム“アンチェイン”はレイ・チャールズの「Unchain my heart」に由来している。心の鎖を解き放て・・・・。ボクシングでは一勝もできず身体の故障により引退を余儀なくされ、引退後に釜ヶ崎で開いたなんでも屋「とんち商会」も思うようにうまくいかず、ボクシングの後遺症や暴飲もあり常軌を逸した行動を起こしてついには精神病院へ送られる。この映画では退院後の梶が他の3人と再会しおだやかに会話するところで終わる。他の3人も、現在ではみな引退している。 魂を解き放つ道程は苦痛を伴い、徒労に終わってしまいそうな切なさと果たして解き放たれる日はやってくるのだろうかという不安の連続である。彼らのリングで闘うひきしまった強い顔、日常の少々気弱で陰のある優しい顔、そんな彼らの顔に地道に正直に生きる者達の美しさを見る。土俵こそ違えども格闘している者はたくさんいるであろう。そんな者たちへ静かに励ましの力をもたらす映画だ。全体の根底に流れるからっとした清々しさや明るさによりヘンな臭味がないのもいい。 2001年5月19日より 「I.K.U.」 舞台は20XX年ニュートーキョー、一大ポルノ帝国を築き上げた多国籍企業ゲノム・コーポレーションのクローン技術により作られた7人のレプリカント“レイコ”たちがI.K.U.=イク(オルガズム)データ収集を使命にセックスマシーンとして街に送り込まれる。レイコは様々なセクシュアルな出会いを通じてオルガズム・データを収集する。ゲノム社はオルガズム・データ・ベース「I.K.U.」を作り上げて性器の摩擦無しのエクスタシー=I.K.U.チップを開発し大量販売しようと企てているのだ。で、実は本作はゲノム社が開発したI.K.U.チップのプロモーション映画だということで…。 なんとも、この映画はそのような設定のもとに展開されていたのだそうだが、わたしはあまり把握できぬまま連写されていくセックスをただただ浴びせかけられていた。ネットを次々に飛ぶかのごとく瞬く間にシーンはワープしストーリーのようなものはない。裸体とセックスのオンパレード。セクシー美女達のセックス、またセックス。それも全然リアルな生っぽさのないプラスティックな質感のもので、情緒や湿度は排除されている。トゥーマッチな生々しさには少々食傷気味な者にとってはフィットする感覚はあるが、生々しい肉の感覚を過剰に失っていく錯覚に陥るようで少々こわい気がした。近未来のセックスは如何様に?というよりも、人間は如何様になるのか?限りない技術の実現は、やはりおそろしい。 台湾生まれアメリカ国籍の女性、シュー・リー・チェン監督は世界中の都市をPower Bookを抱えてメディア・アートや映画監督の仕事をしている。固定した住所を持たずインターネット上のアドレスだけが本人との連絡をとる手段であるそうだ。デジタルというツールで現実と非現実の空間を彷徨っているのか。そんな彼女ならではのセンスでこの作品はデジタル・ビデオで撮影されスタッフとの様々な試行錯誤の末、被写体の生々しさを排除しCGと音楽を効果的に使ってポップ・アートのごとくに仕上げている。ちなみに音楽監督はイーターでもお馴染みのホッピー神山氏だ。 2001年5月レイトロードショー 『イディオッツ』 ◎いっそ狂ってしまいたい。ふざけて馬鹿のふりするのは楽しい。いやいや、そんなことするのはいや。私は本当の馬鹿。あら、馬鹿とはお可哀そう、でもお相手するのは苦手だわ。・・・いずれの方でもどうぞ。 2001年3月23日(金)より恵比寿ガーデンシネマにてレイトショー (参考)
『夜の蝶』 〜ラウル・セルヴェの世界〜 ◎この色合いに、このタイトル、なんだかそそられませんか?
東京12月2日(土)よりユーロスペースにてレイトロードショー 『BAD MOVIE』 今日お前は犬だと知れ! ◎「バッドムービー」は過激なシーンが多く登場するため、韓国検閲委員会や批評家に厳しく批判され、韓国でこの作品はズタズタにカットされて'97年8月に劇場公開された。「青少年保護法('97年7月)」が施行されて間もなくのことで、当時の韓国では過激な若者文化に対する魔女狩り的な抑圧がなされていた。 この映画は、監督自らがソウルの繁華街で遊び踊り酒を飲んで選んだストリートキッズとホームレスによる数々のエピソードで構成されている。暴行、盗み、ドラッグ、レイプ、キッズはワルを繰り返す。ホームレスのおやじらは特殊漫画家・根本敬氏の世界にも通じるようないい顔を見せ、寝たり立ったりしてる姿は汚いがなんとも心なごませてくれる。真実とドラマを行ったり来たり、境界を自在に越境しながら“本物”を目指す、監督いわくフェイクなドキュメンタリー映画だ。音楽も韓国のバッド・テイストを存分に味わえる。昨年「DRIVE TO 2000」で来日してお馴染みのファンシネ・バンドの「チャンポン」(韓国語バージョン)がエンディングテーマで聞けるのはうれしい。決まりごとの何もないこの映画に、チャンポンはぴったりだ! 実は、見終わった後、良心を逆撫でされたようなヘンな気分になった。爽快感やしみじみとした感動などとは無縁で、いい映画だ〜という単純な満足感は得られない。しかしそれは鏡となり、思い、感じ、考え、学びの種を与えてくれた。「良い映画を撮ることに嫌気がさした」と宣言した監督の強い姿勢、意志、反骨精神はこの作品に堂々と提起されているのだ。わるい映画だったな〜というのもよしだ! イータの読者のみなさんは「バッドムービー」をどのようにご覧になるのでしょう?それにしても、「今日おまえは犬だと知れ!」という副題はいかしてます。(ポ) 9月2日(土)よりシアター・イメージフォーラムでオープニング・レイトロードシ ョー(連日夜9時〜) Links イメージフォラム 『天使の楽園』 たった61分が深い味わいをもたらす映画だ。ゲイの青年タカチの死をきっかけに、タカチと彼を取り巻く人々のそれぞれの記憶と 感情の動きが淡々とした静けさのなかで描かれていく。そこには、劇的な展開も衝撃的なシーンもなく、人が死んだり生きていたりする日常だけが続いている。 映像はどこか懐かしいトーンで、画面の中の彼らがあまりに何気ないからか、心にすっと入り込んでくる。 この映画は、ゲイポルノの映画館で公開できる内容というのが 条件の一つだったそうで、ゲイのセックスシーンが多いが、ゲイ・ポルノ館で上映された時には“こんなにもヘテロセクシャルのセックス・シーンが出てくるゲイ映画は今までなかった”と評されたらしい。しかし、同時にその点が魅力であると言われたそうだ。 あらゆる映画のジャンルや感情が混在し、揺れ動いていて、つかみどころのない曖昧さがある。それが妙になじむ。囁くような台詞やサントラ音楽の揺れもよくマッチして魅力的だ。宍戸幸司の割礼や角谷美智夫の腐っていくテレパシーズ等、'80年代日本のアンダーグラウンド/オルタナティブロックの隠れた名曲も聴ける。 追伸―通勤途中に短編小説を読んだ、、、きらめく。 この映画はそんな感じだった。フト、見終わった後のやさしくてかなしい空気を思い出す。天使が見えるような、見えないような。ぼんわり。品のある映画を、ぜひご覧あれ。(ポ) 7月29日より中野武蔵野ホールにてモーニング&レイトショー Links
『モジュレーション』 MODULATIONS
◎現在の音楽シーンにおいて重要な要素となっている、というより音楽シーンそのものとさえ言えるエレクトロニクス・ミュージックに関するドキュメント映画が公開される。
この映画はミュージシャンやプロデューサー、ジャーナリスト、さらに電子楽器の開発者など、様々な人々へのインタビューを中心に、ライブやクラブシーンの映像が断片的に積み重ねられ、まさにデジタルにエレクトロニクス・ミュージックの実像を浮かび上がらせていく。デトロイト・テクノからハウス、ジャングルなどテクノ・シーンの変遷がそれぞれの当事者達のインタビューで語られるのは、この手の音楽に詳しくない人間にとっても有りがたいが、この映画はそれだけでなく、1930年代のジョン・ケージやシュトックハウゼンの実験音楽も取り上げ、背景に現代文明につながる広い視野を感じさせる。 カルト教祖みたいなジェネシス・P・オーリッジ(Throbbing Gristle , Psychic TV) に始まり、DJに興じて踊るホルガー・シューカイ(CAN)で終わる構成も、ロック・ファンには奥深いものを感じさせずにはおかない。
日本人アーチストも何人か登場するが、富士山でのレインボー2000の映像が現場にいただけにかなり印象的だ。 もちろん、これで全てが語られているわけではないが、断片的な映像の積み重ねのなかに、観る者それぞれの視点が得られるのではないだろうか。テクノ・ファンだけでなく、今の音楽に興味のある人にとって、価値のある映画だと思う。(J) 7月22日より 新宿ジョイシネマ(03-3209-6180)にてレイトロードショー(21:00開映) ▲ Copyright(C),
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