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金子雅和・ロングインタビュー

廃墟と自然・場所の持っている力

―― トークでも言っていたけど、廃墟マニアなんですか?
金子 (笑)マニアってほどでもないですけど、廃墟は関東周辺ずいぶんあちこち行ってます。

―― いつごろ?
金子 10年近く前から、いろんなところへぶらぶら行くのが好きだったので。最近はあんまり行かないですけども…。面白い場所を探すわけではないんですけど、フッといいなと思うところに入っていくのが好きで。

―― この映画の撮影でそういう場所がいろいろ使われてるそうですけど、撮影場所としては奥多摩が多かったんですか。
金子 そうですね。奥多摩がわりと多いですね。最後の滝も奥多摩ですね。もう一人の主人公の男の方が出てくるのは栃木県の今市っていうところにある廃墟で…、もともとリゾートホテルみたいなのがあったところで。

―― 最初に主人公の妹が訪ねていく半分テラスみたいになった建物は?
金子 あそこは吉祥寺の井の頭公園の植物園なんですね。周りの風景は湯河原で撮っていて。いろんな所で撮ったのを編集でつなげているっていうか。

―― それで現実なんだけど現実じゃないような世界ができあがってるんですね。
金子 殺人鬼の男が出てくるのもあれは違う場所で、横浜のほうなんですけど。そういうふうに、あの10分くらいの中でもかなりの距離を移動して、モンタージュしているというか。
ただ、映像の中に写ってた場所でも、実際に今行ってみると、季節とかもあると思うんですけど、そこまで遠い場所でもないし、そこまで凄い場所でもないし。やっぱりそこの空間の中の、ある見方というか切り取り方、それで他の人が発見できない何かを発見できれば面白いなと思っていて。
やっぱり映画を作る時に、場所から何かを発想するっていうことが多いんですね。自分にとってすごく惹かれる場所、空間があって、そこにどういう人がいて、そこから物語が…。先に場所があるっていうか、風景があって、そこの中で何が起きたらおもしろいのかっていう、そういう発想の仕方をわりとしているというか。

普通に映画を観ていて、多くの映画…、言い方が変かもしれませんけど、ちゃんとした映画ほど、人物が前面にいるっていうか、背景は背景でしかないっていうか。人間が、タレントがちゃんと写っていて、その後ろにただ背景があるだけっていうか。その背景が風光明媚であればそれでいいんだろうし。そういうふうな映画の作られ方に対して、昔からすごい違和感があって…。

やっぱり写っているもの全部の力の総体だと思うんですよね、映像っていうのは。人間だけではないっていうか。背景…、それは街なのかも知れないし自然なのかも知れないですけど、それの全ての総体としてのエネルギーが観客に伝わらなければ意味がないっていうか、そこに力があって。ただ背景があって人間の話がありますよっていうのは、すごい違和感があって好きではなくて。なるべく風景と人間を等価において、同じように力があるものとして描きたい…。

『すみれ人形』の場合でも、風景の中に常に人間がいるんですけど、畢竟、僕が思うには、人間も風景も究極的には物質という意味では同じ。だけれどもやっぱり人間の場合だとエゴがあったり、そういうもので完全に風景と一体にはなれないっていうか、そこからはみ出るものっていうのが必ずある…。
『すみれ人形』というのはそういう人間のエゴっていうのが増幅していくというか、むき出しになっていく。風景と同じように物質でしかないのに、物質になりきれない人間の何か…、性(さが)っていうか、そういうものをテーマとして、物語の中でどんどん掘り下げていこうとしているんですけど。そういうことをもっともっと掘り下げていけたら、おもしろくなっていくんじゃないかなと思っているんです…。

だから最初に映像を撮り始めた頃っていうのは、風景があってその中に人間がいて…、例えばクローズアップの世界で、植物の葉脈と人間の体の血管とか老人の手の皺とかと、そういうものをイメージでつなげていって、人間と自然というものを同じように扱うっていうか、そういう映像作品を最初は作っていたんですね。ただやっぱり、人間はそこからはみ出るものは絶対あって。人間に対しての興味というか見方というものが自分の中でどんどんでてきて、そのはみ出ていく部分っていうのが、物語の中で展開できればおもしろくなっていくんじゃないのかなって思っているんですけども。

―― それはあの映画を観て、すごくわかりますね。
金子 もうひとつ自分の中で思っているのは、『すみれ人形』の時はちゃんとした物語映画をしっかり作ろうっていう意識でやっていたので…。長編でちゃんとした物語映画っていうのは僕初めてだったので…。
ひとつのシチュエーションというか、人物と人物の密接な関係というか距離感というか、その中で些細な動きの中でそこにエロスがあったりとか、そういうものがすごい好きで…というかこだわりがあって。ただ5分くらいの課題の中でやるときは、それはけっこう強いんですけども、どうしてもその密度の高い状態というのを一時間とかにはできないっていうか、長編にするのはむずかしい…。それは講師の瀬々さんとかいろんな方に言われて。やっぱり長編にしないとだめだから、濃密な部分だけではなくてもっと話を広げろっていうか、それを一回やったほうがいいって…。それで、時間もいきなり飛ぶし事件も起きるしって、そういうことをかなり意識して『すみれ人形』の時はやったんですけども。
ただ、物語を転がすっていうことにかなり一生懸命になったっていうか…。

一個一個のロケ地も自分が全部見に行って探してきた場所なんですけども、その中で物語のせりふを言わせたりとか、動かすっていうことでいっぱいいっぱいになってしまって、その場所自体の持っている何かっていうか、要するにもうちょっとライブ感というか、撮っている時にそこで起こった何かとか、その場所自体が持っている歴史感というか、空気であったり…、廃墟であればそこに過去にいた人達の何かが残っているわけだし、そういうものはあの映画の場合はストーリーを優先するために切り捨てていったので…。
その切り捨てた空間の持っている力というか、そういうものをもっとこっちが引き出すっていうか、そういう作品を…、次やるんだったらもうちょっとそういう面を取り入れたいなって、そういうふうに今は思っているんですけれども

―― 『すみれ人形』自体かなり濃密な作品だと感じましたけど。
金子 ええ、ある種課題としては、濃くした分の閉塞感がすごいあって、次の作品を撮るのであれば、そこからもうひとつ破綻するというか、突き抜ける部分が何かあったほうがいいだろうなっていうのは思っているんですけれど。ただ物語が展開するっていうだけではない、映画的な驚きっていうか、感動がもっとでてきて欲しいなっていうのが…、その辺を今考えています。

違和感が何かを生み出す

―― 『すみれ人形』にはどこか江戸川乱歩や夢野久作に通ずるものを感じたけど、ああいう世界はもともと好きなんですか。猟奇的、あるいは耽美というか。
金子 江戸川乱歩はよく言われるんですけども、怪奇というかそういうものは子供の頃から好きなんですけれど。ただ乱歩は『少年探偵団』を子供の頃好きでいっぱい読んでたんですけれども、乱歩の大人向きのっていうのはそんなに読んでなかったんですよ。乱歩的なものをやろうっていう意識はあんまりなかったんですけれど、だけど乱歩を思わせるっていうのはよく言われますね。

―― 乱歩的な感じの映画はけっこうあるけど、『すみれ人形』には全くあざとい作為を感じなくて、自然に生み出したものがそういうものになったという感じがすごくして、それでいいなと思ったんですよね。
金子 そうホームページで書いてくださったのがすごく嬉しかったですね。ああいういわゆるロマンというか、…例えば実相寺監督とかはわりとそういうのでやってると思うのですけど、様式でああいうのをやっているのに違和感を覚えるっていうか、わざとらしいと言うか、なんか違うんだよなっていうふうに感じてて…。けっこう照明とかでパッキリと作ってやってる感じに違和感があって、そういうことではないんだよなとすごく思うところがありますね。

―― もっと人間の心の奥まった部分を整理できないままに表現しているのが乱歩だと思うんだけど、乱歩ものの映画でも、それをへんに耽美的なひとつの美意識でまとめちゃってるのが多いと感じてたんですよね。
金子 多分映像の世界だと、ああいう乱歩的な感じっていうかそういう記号になってしまって、そういう手法が定着しちゃってるというか、撮影の仕方が…。それはやっぱり違うんじゃないかっていう…。映像のトーンとかじゃなくて、もうちょっと内面的な部分での乱歩の感じということじゃないとだめなのかなと思いますよね。

―― 映画の中に『少女地獄』という名前も出でくるけど、夢野久作も意識してたんですか。
金子 そうですね、名前は使ったんですけど、夢野久作は僕はそんなに読んでないし(笑)、そんなに特別好きってわけでもない。アップリンクXの支配人の方も最初観てもらった時に、夢野久作とか江戸川乱歩的な記号、あと寺山修司的というかアングラ、そういうものを使ってはいるけれども、そういうものが本質的に大好きでやっているわけではないだろうって言われて、そういうものとは違うものを感じたっていう…。僕もそう思っているので、そこはすごい嬉しかったですね。

―― 映画全体を通して、生命と物質が渾然となっていくというイメージがすごく強いですよね。木の義手もそうだし、人間と人形、死体とか。さっきの廃墟の話にもあったけど、人間と物との境界が不確かになっていく、そういう生命観がベースにあるように感じましたけど。
金子 そうですね、やっぱり人間と自然とか、その中での人間の葛藤というか、その中で収まらない人間の何かっていう、そういう感情みたいなもの、違和感であったりとか、…人間が人間であることの違和感というか、そういうところから物語を発想していっているんですけれども。
…多分創作って、自分が一番乗っていける時っていうのは、ある種の違和感であったり…何かに対する怒りというか、これは違うんじゃないかっていう、そういうものが自分の中で芽生えた時がやっぱり強いなあっていうふうには思ってるんです。そういう時はけっこうシナリオとかもガッといけるし。こういう感じを皆おもしろいって思うんじゃないかって思って書いたやつは、僕の場合、いつも徹底的にダメっていうか(笑)、なんかうまくいかないんですよね。

―― 『すみれ人形』ではどういう違和感がモチベーションに…。
金子 『すみれ人形』の時は、やっぱりシナリオの勉強とかをしていても、圧倒的に人間を描くことを…、人間が絶対的に主人公だっていう考え方をほとんどの人が言うっていうか、シナリオを教える人が。人間を描くことが大事っていうのは絶対そうなんですけども、人間が描けないとダメなことはわかるんですけれど、ただ人間だけ描いていれば映画になるのかっていうと、僕はそう思わなくて。

それと、あの作品は非常に妄想的な部分っていうのもあるんですけれど、心の中のもやもやっていうか…。映画学校の時は実際の体験というか、実感として自分の体験というものを書かないとだめだっていうふうにすごい言われて。瀬々監督には特に言われませんでしたけど。
だけど実際の体験ではなくても、何か心の中にあるものっていうのはあるし、体験に支配されて作ったものが果たしておもしろいのかっていうと、けっこう疑問があるっていうか。結局は表現よりもその人の実際の体験のほうが勝つから、なんかそれは違うんじゃないかなとすごい思っていて。そのへんに対しての違和感っていうのがその時すごいあって。僕は実際に妹を殺されて腹話術師をやってるわけではないですし(笑)。実際の体験が映画として必ずしもおもしろい訳ではないし、そうじゃないものでもおもしろいものが作れると思うし。
人間と人間以外のものが渾然一体として、すべてが同じように主張してきて、それが闘ったり、お互い潰しあったりって、そういう世界で何か創りたいっていうことをすごい思って。というのが一番最初の創作の動機としてはあって、それを物語化していく中でああいうふうになっていったっていうことなんですけども。


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