<その55> 横綱 朝青龍 引退

私は、琴欧州の寂しさだけで美しいと思います。
私は、山本山のでかさだけで美しいと思います。
私は、豊ノ島の体形だけで美しいと思います。

私は、朝青龍に愛着はありますが、美しく思えませんでした。

お相撲さんの朝青龍が、やれ品格だのなんだのの理由で残念にも引責引退しました。
その実がどうあれ、説明無しでも日本人の我々には、「まぁ、しょーがねえよな」との気分が解ります。
日本人としてのアイデンティティを確認するとき、私は笑いながらお相撲さんを見てしまいます。もっと言うと、良かれ悪しかれ好むと好まざるによらず、相撲が具現化しているような。

日本人の精神的理想偶像を具現化するものとしての役割=横綱

とするなら朝青龍は面白い力士だったけど、残念な横綱ではありました。
だから横綱推挙なんか断って、自ら大関で寸止めしてべらんめえでスットコドッコイな最強お相撲さんでいて欲しかったんだけど、おそらく彼は横綱=チャンピオンとの認識だからそうはいかない。
横綱になれなかった雷電っていう江戸時代最強力士がいたんだけど、なぜチャンピオンにならなかったんだろうと、ぼんやり考えてます。

相撲に限らず日本の武道というのは、殺し合いのシュミレーションだから敬意が必須で、腰に注連縄(しめなわ)なんか巻いちゃって神の代理ってことの様式美?行司さんなんて土俵上で短刀忍ばせて銃刀法違反じゃあるまいか(笑)しかし誰もおかしいとは思わない。

だって相撲だから。

伝統様式ってのはむちゃくちゃで素晴らしい。
力士たるや、ふんどしにちょんまげ!正確にはまわしに大銀杏。
ワールドワイドな21世紀を渡ってるんだから異形美です、圧倒的に。
角界の時代錯誤な風情を楽しむ先に、我々の根っこをぼんやり示してくれるのは理屈なしに敬意を抱く。
神事の意味合いもスポーツの意味合いも曖昧なまま、数百年も連綿と行われてきた相撲という奇跡で異形な世界だからこその伝統。

勝てば良い、土俵に上がれば鬼になると、朝青龍の正論は真っ当だが、正確じゃない。
横綱に求められるのは「勝つ」ことではなく「負けない」こと。
「負けない」というのは他の力士に対してのみならず自分自身にもという日本人の美学。

土俵には金が埋まってると教えられつつ、相撲は神事で品格が…と言われても、そりゃ微妙すぎてなんだかわかりませんって。
しかし我々には理屈無しにぼんやり理解します、日本人だから。
しかもその曖昧さがニッポンを支えてきた。
例えば「どうも」でほとんど通用するんですこの国は。

モンゴル相撲とニッポン相撲の違いが見て取れる。
モンゴル人としての品格と我々の品格は同じでは無いわけです。
勝って羽ばたく盛り上げパフォーマンスと、勝って両者頭を下げ、礼をするパフォーマンスは、勝者を讃える美学と敗者を作らない美学との微妙な差。
それをアイデンティティと考える。

面白い相撲をとった朝青龍が引退したのは残念だけど、なにが残念って 『横綱』 になった事である。

なぜ自分が相撲を愛しているのかを考える、いい機会になりました。

2010/2/10

 

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