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───いわゆるアンダーグラウンドな部分のバンドのプロデュースをして、しかもレーベルまで作ることになっていったのはどういう経緯で?
神山
それはここ10年の話です。それまではまあ付き合いはありましたよ、じゃがたらとかフールズとか。ただ、インディーズのレーベルをやってプロデュースをしようっていうようなとこまではやってなかった。そこまで自分が経済的に出来る余裕がなかったもんですから。時間的にも。20代の終わり位までピンクがあって、いわゆるお金が廻ってくるものしか許してもら えなかったってのもありますから。まあ友達界隈ではなんとなくやりましたけど、それを実際自分が始めたのはほんとここ10年。ピンクがなくなった後に、もうちょっと自由な身になってから。
そして自分が10年前に東芝でソロを出したことを機に、そのちょい前から海外にしょっちゅう行くようになって。海外の自分がいまだにつき合ってるようなミュージシャンとのきっかけを作ったのも、あのソロを作ってる時だったもんですから。
自分がそれまでやってた、考えてたことっていうのが、日本人の界隈の中でやってると、 100%それを信じて出来るっていう事はなかったんですね。そういう状況を良いって評価されないし。だけど海外のつき合いのあったミュージシャン達の姿勢とか、考え方とか、やってるモノっていうのは、自分の考えてることとなんら変わりがなかった。
これは間違いじゃないと、そこで自信を持ったのがきっかけで。だったらレーベルを大きく立ち上げてやった方がいいっていう、原動力になったことは確かなんですよ。
───ちょうどその時期に、日本のオルタナ・シーンと海外との繋がりというのが、急 に広がってますけど、ホッピーさんが最初に海外との繋がりが出来たのは…。
神山
自分が東芝からソロを出したことがきっかけですよ。───それを向こうの人が興味を持ったという…。
神山
自分がいいと思った人間にどんどんコンタクトして、やってったんですよ。───あ、こっちから。
神山
ええ。自分が最初のアルバムで一緒にやったファンカデリックのジョージ・クリントンは、たまたま彼が初来日した時に雑誌のインタビューしたんですよ。そこで意気投合して、その日のファンカデリックのライブに私が出たところから付き合いだしたと …。───えっ、その日にもう出るって決まったんですか。
神山
出たんです。まあ、外タレだからって言って、私はあんまり偉いとか偉くないと かいう気持ちないんですよ。ざっくばらんに話してて、曲知ってるし「一緒にやりましょうよ」みたいなことをこっちからどんどん言っちゃう。だからそれ以降のミュージシャンも、突然電話するんですよ。「急にやりたいと思ったんで、電話しました」って言って。そうやって自分を知ってもらうしかないですから。
───そういう人って他にあんまりいないんじゃないですかねぇ。
神山
しないと何も始まらないですよ。今でもそうですけど、まずこっちから切り出さ ない限りは、相手から言ってくることなんかないですから。まあ、どっちかって言うと日本人の奥ゆかしさが私にはないんです。まあでも、それでやってきたお陰でゴッドマウンテンもできて、今の自分の活動にも繋がってることは間違いない。だから雑誌とか向こうのラジオとか、全てのネットワークを個人的に自分が持ってるっていうのも、自分がそうやってコンタクトとってきた意味でもあるんですけど。
間に人が入ると中々人を動かせないですけど、個人的にものを送って、それを記事にしてもらったりとか、ラジオでかけてもらうとか、今は可能ですから。それはとても、自分のやり方よかったと思ってますけど。
ホッピー神山インタビュー「イーター」7号より抜粋
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